妊婦というしごと

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妊娠は病気じゃないとかそういう理屈があるけど

だったら辛くても我慢して誰にも頼っちゃいけないなんていうのはオカシイって思った。

妊娠してから電車に乗って職場へ向かう日々の中で、いっときのわたしは、

頭がおかしくなりそうなくらいに強烈な寂しさとやるせなさに押しつぶされそうになってた。


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誰も気づいてくれない、(もしくは気づいてるのか、わからないけど)

席を譲ってもらえない。

「マタニティマークは席を譲ってくださいマークではありません、何か非常事態のときに自分が妊婦であることを知らせるためのマークです。

(なので期待するのはやめましょう)」

そういうものらしいのだけど、

妊娠中の体調が悪いときに 譲ってもらえないかなって期待することの何が悪いのだろう、居心地悪いな、

過ごしづらいなって思いながら 電車をやり過ごした。

なんだろうな、なんか 人の余裕のなさみたいなのが 悲しくなったな。

妊娠中の漠然とした不安で、心細くて

食べづわりだったから、いつお腹空くかも気が気じゃなくて、

電車で動悸がしてしまうことも出てきて

ねぎらってほしいな 優しくしてもらいたいって思いでいっぱいだったときに、無関心の渦の中にいたら、

とっても心が張り裂けそうに痛かった。

望んでいたことだけど、

妊婦というのはこんな思いをしながらお腹の命を育んでいかなきゃならないのか、、

孤独な仕事だなぁ。辛いなぁって思った。

そんな感じに、いちばん気持ち的に辛かったときは

行き交うまわりの人たちがみんないじわるな敵みたいに思えて、

それもまた本当に辛くて仕方なくて、

そんなふうに思ってしまう自分が悲しくて、

なんだか家に帰ると毎日涙が出てきてしまってた。

中途半端にネットの情報を入れてたのも良くなかったんだよね。

「マタニティマークをつけたまま、普通席の前に立つな、優先席の前に立て」とか

「そもそもマークがいらつく」とか

「妊婦は電車に乗るな迷惑だ」とか

そんなの読んでたら、とても怖くなった。

え、じゃあどうしたらいいの??って。

変に遠慮して、嫌われたくなくて、たぶんコソコソしてたわたし。

途中から、なんだか吹っ切れたというか割り切れて、

“どうせどんな風にしてたって、嫌う人も優しくない人もいるんだから 堂々と図太くいよう”

って思った瞬間があって。

そう思ってコソコソするのを辞めたら、席を譲ってくださる方がいたり、

優しいお気遣いをもらえたりすることが なぜだかぐんと増えた。

優しい人はたくさんいた。

そのことに、本当に本当に救われながら毎日生きてる。

いまになってようやく思えるのは、

みんな無関心だけど、気づかないだけでいじわるをされていたわけではなかった、

ということ。

↑いま改めてこうして書いてみると当たり前やろ!って感じがしちゃうけど、

いちばん辛かったときはほんとにみんなからいじわるされてるような感覚になってたから、

妊娠中のわたしの精神のなかでは大革命なできごとだった。

ありがたいな。

席を譲ってくださった方々の優しさ、思いやりに本当に感謝。

いただいた優しさは、たぶん一生忘れないと思う。

ひとりひとりへその場で感謝の言葉は伝えられても、それ以上のお礼は直接することができないけど、

遠くから幸せを願いたいし

妊娠生活後に わたしもまた人に席を譲ったり、

思いやりを渡していくことをたくさんやっていきたいと思った。

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