【気持ちを伝えるということ(過去記事)】

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去年書いたFacebookの記事が良かったので再掲。

追伸

余談ながら、なんか最近

ここよりももう一段階、目線が上昇していて我ながらすごー!となっている。笑

(こちらはいま言語化しようとしてるところ。)

【気持ちを伝えるということ】

“傷つけないこと”はできないのかもしれない。

それは、受け取り手の問題だから。

けど

“傷つけないようにしようとすること”はできるし
“傷つくようにしようとすること”もできる。

それは発信側の問題だから。

この世には正しいことなんて、
本当はなにひとつないのだと思う。

その人にとっての正しさがあるだけであって、
それが相手にとっての正しさであるわけではない。

上から目線とか
マウンティングとか
上下関係とか

そもそもちゃうねん。

あるのは
“気持ちを伝える”、これだけ。

感じた気持ちは、事実だから。
ここをかっとばすから、
人間関係がおかしくなる。

悲しかった、
傷ついた。

それだけで良いの。

・・・

(ここからちょっと難しいこと書きます。
興味ある人だけ読んでね)

喜怒哀楽のうち、負の要素には”怒”と”哀”がありますね。
“怒”、おこること。

“哀”、悲しみや心の傷。

このふたつって
切り離された別のものではない。

ルートとしては

“哀”しくて傷ついて
それが”怒”りとしてアウトプットされる
《こともある》。

(“怒”にいたるには、
ほぼかならず”哀”を経由する。)

逆説的だけど、このふたつって
区分けとしては全くのべつもの。

“哀”は心の反応として起こること。反射的に感じたことそのもの。=気持ち

(※その人のフィルターを通しているので
事実とはまた別もの)

“怒”は
“哀”の反応を意図的にアウトプットしているもの。=行動内容

おこっちゃう人は
“怒”という行動を選びとった結果としておこっている。

言い換えると
反射的におこってしまった、というのは
ありえない。

人を傷つけることは、
できることならしないで生きていたい。
おこりんぼコミュニケーションはしません。
その行動を取る必要がない。

これがあるから、
責め合いになったり心の傷が加速する。

けど
正直に思った気持ちを伝えることは、キチンとやっていこうとおもう。

良いこともそうでないこともね。

それがコミュニケーションする相手への誠意だとおもうし
なによりも自分への誠意ですもの。

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