執着を認めた先に見えたもの。

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わたしは、ある意味ドライで

むかしの仲間とか

そういうのはどうでも良い方で。

(“いま、ここ”にいるわたしとは、切り離された存在という意味で)

人への執着は”数”という意味では

少ない方だとおもう。

そんな中で、ふたりだけ

強烈に執着していたひとがいた。

このことに気づいたのは、

ごくごく最近。

ひとりはずっと敬愛し続けてきた方。

もうひとりは

数年前まで強くお慕いしていたものの

あることをきっかけに、いまや顔も見たくないくらい嫌になったしまった方。

(詳細は割愛)

で、いろいろ割愛してごめんなさいなのだけど

このふたりに対して

ものすごく執着していたという事実が、

1月29日・水瓶座の新月前くらいに強烈にじりじりと顕在意識下に出てきた。

ふたりとも執着してたのは、

実に3、4年くらいの期間(長!!)

そしてそれが、無意識の中で

なかなか大きなノイズになっていたことに気づいた。

これに気づけたのは、

敬愛してきた方については

・その方本人に、まっすぐに気持ちを伝えて

→反応をもらった

→それに対して、自分が感じた気持ちを見つめた

顔も見たくなくなった方については

・その方についていまだに心の中でふっとよぎるどろりとした気持ちを、

第三者(主人)に吐露させてもらった

→「まぁ、そう思ったって別にいいんじゃない」というフィードバックをもらった

で、いままではあまり良しとしてこなかったけど

自分のなかでまず、気づいたのは

「わたし、あのひとに

強烈な執着があるんだなぁ」

「でもまぁ、いいか」。

執着しちゃだめだ、って

どこかで思ってた気持ちに気づいて

執着しても、別に良い!

という感覚をたんたんと受け止めてみた。

そこから、

さらに気づいたことは。

過去に思い込んでいた憧れをいまも憧れだと思い込んでいた”、

“他人の夢を自分の夢だと思い込んでいた”。

捨てたはずのこの感覚が、いまだに強く

わたしの心の奥に染み込みっぱなしだったことに気づいた。

うまく言えるかわからないけど

誰かの影が自分に投影されるものの、

それがあまりに部分的だったり、瞬間的なものだから

とてもまぎらわしくて見つけにくかった感覚。

だから、

執着している相手のことをふっと思うとき

なんだか”あやという人間”がうわのそら状態でどこかに置き去られていて、

カメラが切り替わって、自分のあたまで考えているのに

自分が”いま、ここ”で思考しているのとは微妙にズレたような(まるで誰かの目を通して世界を見ているような)感覚を覚えていたことに気づいた

そしたら

手の上で泥のようにがつん、と固まって動かなかった執着心が

まるで、手から砂がこぼれるみたいに

少しずつさらさらと滑り落ちて手離れていくような、そんな感覚を覚えた。

特に、冒頭に挙げたひとりめの方については

気持ちよく、さらさらと。

…まぁ、実は

もうひとりの方(顔も見たくない方笑)はまだ100%ではなくて、ここはもっと溶かしていきたいところだったりするけど。

(恐怖の記憶とセットになっているからか、新しいことに取り組むときとか

折々で黒い影みたいにぬぅっとその方が…というよりはその時にその方にされたこと・言われたことが、

フラッシュバックしたりして。

でも、それはきっと

その方に執着してるというより、そのときの記憶を使って、なにかの恐怖心で自分を守ることに執着してるのかもなぁ

なんて思ったりする。

自分を守るため、みたいな。)

でも、それでも

ひとつの大きな縛りがほどけたことは、わたしにとって、ものすごい前進!

世界の余白が増えた感覚(*^_^*)