カハタレトキ(彼は誰時)とタソガレドキ(誰そ彼時) に寄り添って、人生が動き出す。

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太陽を見上げながら、まいにちを過ごすことを覚えて思うこと。

カハタレトキ=彼は誰時、
すなわち明け方を示す。
(「彼は誰?」と聞かなければ相手の顔がわからないくらい薄暗い朝の時間を言う)

ちょこんと顔を出した太陽は、
みるみるうちに全貌をあらわして
燃えるような赤いひかりを浴びせてくれる。

※この間、およそたったの3分ほど。

タソガレドキ=誰そ彼時=黄昏時、
すなわち夕暮れ時を示す。
(元はこちらもカハタレトキと言っていたのを差別化して言う)

太陽が沈みだし、刻一刻と
空がグラデーションの表情を変えていく。

濃紺と赤い夕焼けの妖艶なグラデーションの空に沈みゆく太陽(こうなるとマガトキ=禍時という)
をみおくる。

一日の中の時間で言えば
微々たる瞬間的な時間。

(太陽が顔を出す瞬間、ひっこむ瞬間に限っていえば

ほんの朝夕合わせても10分足らず)

これだけなのに、
世界の見え方がおおきく変わることに気づく。

まるで、太陽の動きとともにある生活をまだはじめていなかったときが
本当の意味で人生が動き出していなかったんじゃないかと思うほどに。

そう思うくらいに
お日さまの強いエネルギーって、身体にばしゃーん!と飛び込んできてくれる。

初めて屋久島に行ったとき
森の木々やしっとりした苔、水分をたっぷり含んだ澄んだ空気にかこまれて
なんとも言えずに身体にしみわたる心地よさに感銘を受けた。

あのときの感覚を、当時は
「屋久島という場所がこんな感覚にさせてくれるんだ」と考えてた。
(だから、味をしめてひとりで3回も行った。笑)

けど
いま思い返すとそうではなくて、

“自然と繋がる=自分と繋がる”。

要は、こういうことだったんだなぁ。

心がしなやかにほどけていく余地は
きっと、まだまだたくさんあるんだとおもう。

そしてそれは、ものすごく大変ななにかの作業ではなくて

生き物としての基本的なことを見なおすことなのかなぁ、と最近かみしめている。